●2009年6月26日反対討論全文 (ワードデータで読みたい方はこちらより右クリックでダウンロードしてください。)
刷新の会 古坊知生でございます。私はただいま議題となっております、21陳情第12号及び21陳情第15号を採択とすることに反対の立場から討論をいたします。
豊島区においては平成18年に、「豊島区子どもの権利に関する条例」が制定されました。当時私はまだ議員ではありませんでしたが、権利よりも義務の方を教え込まなければならない子ども達に対して、どうして権利を強調するような条例を制定するのか外から見ていて非常に疑問でした。
今回、2本の陳情が提出され、子ども・文教委員会に付託され、委員会の審査では賛成多数で可決すべきものと決定したという結果を聞き、大変に驚いております。そもそも「子どもの権利に関する条例」というものは国連において「児童の権利に関する条約」が締結されたことを受けて登場してきたものでありますが、国連において採択された児童の権利に関する条約は、発展途上国における、人身売買や貧困などから児童を保護することが主たる目的であり、先進国を中心的な対象とはしておりません。しかもこの条約は1994年に日本で批准されたとはいえ、国内法体系のバランスを崩してまで子供の権利を突出させることを締結国に要求するものではありません。だからこそ政府においても当時の文部省事務次官から、「児童の人権に十分配慮することは極めて重要」としながらも、「学校では児童生徒に権利と義務をともに正しく理解させる。学校は教育目的を達成するために必要な合理的範囲内で指導や指示をし、校則を定めることができる」旨の通知がされているのです。であるにもかかわらず平成12年、神奈川県川崎市を先駆けとして、子どもの権利に関する条例という形で全国の地方自治体に次々と制定されてきているのは何かしら政治的背景があると考えざるを得ません。
全世界でこの児童の権利に関する条約を次々と批准していく中、アメリカ合衆国はその条約を批准しなかった珍しい国であります。私はアメリカという国を全肯定するつもりはありませんが、その点においては高く評価するものであります。
1960年代、70年代のアメリカ社会において、反体制運動としての子ども解放運動や子供の権利運動が起きることにより、アメリカ社会と教育界は大混乱に陥りました。子ども達はカリキュラムからの解放、あるいは校則からの解放を訴え、必修科目を廃止して選択科目にするなどして、著しい学力低下を招きました。生徒手帳からは校則が消え、口髭をはやした男子生徒、真っ赤なマニキュアを塗った女子生徒が現れるようになり、暴力、フリーセックスの横行、十代の妊娠、教師たちの燃え尽き症候群など例をあげると数え切れないほどの問題が噴出し、「子どもの権利」そのものと真剣に向き合わざるを得なくなりました。そういう流れの中で、権利意識が強いといわれるアメリカでさえも、児童の権利に関する条約を見つめなおした時に、心ある議員たちがその危険性を察知し、合衆国連邦議会において当時のジェシー・ヘルムス上院外交委員長をして、「国連の児童の権利条約は自然法上の家族の権利を侵害するものである。」とまで皮肉られ、また、J・P・ルシール議員をして、「もし合衆国がこの権利条約に署名し批准するならば、それはアメリカの家族にとって悲劇であろう」とまで言わせるようになったのです。
私は、今回の陳情者の方々が、現場でなかなか解決できない問題を抱えている子ども達のことを思い、何とか早期に解決できないかと真剣に心配しておられるお気持には心から敬意を表します。そしてその気持ちは私も共有するところであります。今回の陳情が「豊島区子どもの権利に関する条例」の趣旨を踏まえたものであるという論点に立てば、私は先に紹介したアメリカ合衆国のように、この条例がもつ日本社会の伝統的な価値観を崩壊させうる危険性を考えた時に賛成をすることはできません。以下その理由をいくつかに絞って説明したいと思います。
第一に、子どもの参加を規定した第5章第19条では「子どもは、社会性を培い、子どもの権利を実生活に生かすために、家庭、子どもにかかわる施設または地域に対して、権利の主体として参加することが保障されます」とありますが、権利の主体が子供とはいったいどういうことでしょうか。法的地位から言えば、子供は「保護の対象」であり、「権利の主体」ではありません。たとえば少年法においても、大人と違って負うべき責任はより小さく配慮されたものとなっています。私たち一般の感覚から言うと、保護と自律のバランスというものがあり、子供に対しては自律するための保護という視点が考慮されるべきであり、一方的に自律を強調してはいけないということは子供を育てたことがある方なら、より簡単に感じ取れると思います。子どもが「権利の主体」ということに違和感を覚えます
第二として、第6章に子どもの権利侵害からの救済及び回復という項目があり、そこで区長の付属機関として子どもの権利擁護委員の設置が書かれ、また擁護委員の職務として、第23条の第一項に「子どもの権利侵害に関する救済の申し立てを受け、必要な調査及び調整を行うこと」とありますが、権利侵害とは何を指すのかという重大なことに対する説明が条例には記載されておらず、定義が非常にあいまいであり、個人の考え方によってどうとでも解釈がとれるようになっています。しかも3人以内の権利擁護委員を設置するとありますが、その定義があいまいな権利侵害について一体誰がどのような基準で権利侵害と認めるか、あるいはそんな大切な問題を特定の個人の判断に任せていいのか、判断を間違ってしまった時にはどう責任をとるのか、さらに言えばその擁護委員が調査権限を持つということは警察に匹敵する捜査権限を付加されているということであり、これは司法の独立を保障した三権分立の問題にもかかわってきます。
以前に国会で人権擁護法案を通そうという動きがあった時に、まさに今問題にしている観点から、法案自体が廃案となった経緯、すなわち、権利擁護委員という個人やその権利擁護委員会にそれだけの強大な権限を与えていいのか、逆の人権侵害が起こるのではないかという問題が指摘され、国会で審議すらされていない状況ですが、それと全く同じ内容を具現化しようとしているのですから、非常に慎重に取り扱わなければならない問題と考えます。
最後に第三として、子どもの権利委員会の設置については第6章第31条において「区は、この条例に基づく計画及び施策を検証するために区長の付属機関として子どもの権利委員会を設け」「区長の諮問を受けて子どの権利保障の状況等について、調査及び審議すること。」そして「審議の結果を区長に答申し、制度の改善等を提言すること。」と書かれてあり、区の計画や施策への監視機関、あるいは区長への政策提言などおよそ強大な権利を得るようになっています。
この子どもの権利に関する条例を全国でも最初に導入した川崎市ではこの条例に付随してできた、「川崎市人権オンブズパーソン条例」により子どもの権利を擁護するという名の下に大変理不尽なことが起こりました。人権オンブズパーソンとは、子どもの権利の侵害に関する救済申し立て、調査、勧告、是正要請する権限が与えられている監視委員のことを言いますが、その川崎市人権オンブズパーソンが記した平成15年度報告書によると、授業中立ち歩きをした生徒を、教師が叱って強制的に席に着かせた。このことが生徒の人権を侵害したとして、人権オンブズパーソンが学校に調査、要請指導。その結果、教師は謝罪させられ、研修までさせられたといいます。こんなことが起こるようでは学校教育が成り立たなくなるのではないでしょうか。授業妨害した生徒を先生が注意することもできなくなれば、まじめに授業を受けている生徒の、授業を受ける権利は誰が守ってくれるのでしょうか?子どもの人権といえば、未成熟な子どもにありがちなわがままな主張がなんでも擁護されるのではなく、擁護されるべき人権は何かということを明確にしておかなければこのような条例は必ずまちがった方向に進みます。
以上の観点から私は子どの権利に関する条例自体を認めることはできず、この条例をある意味で誠実に実行せしめようとする今回の陳情については陳情者の願意に添いかねます。
ただ現実問題として虐待やいじめにあっている子ども達に対してどうすべきかとの問いに対しては現在ある家庭支援センターにおいて、「権利擁護に関する機能」という観点ではなく、警察、司法そして地域のコミュニティとの密接な連携の中で「児童の福祉に関する機能」を更に質量ともに充実すべきと考えます。
権利擁護センターというものをつくりそこに権利委員会を設置し、権利擁護委員に活動させる。虐待やいじめにあって苦しんでいる子ども達が、自分が置かれている環境から解放してあげられるかの様に一見思いますが、三権分立という社会の仕組みを侵しかねない機能を設置することには慎重の中にも慎重を期さなければなりませんし、長期的視野に立って見ると、この条例は未成熟で権利の使い方も知らない子ども達に不用意に権利という武器を与えてしまうものであり、それが子供の我儘を助長し、しいては親や教師の言うことなどきかず、勉強もせず、非行やフリーセックスに走り、自由の裏には義務があることも知らず、ただただ権利を主張し、思いのままに行動する、1960年・70年代のアメリカの二の舞にこの日本がなることは絶対避けなければならないと私は考えます。
長期的には家庭における親の在り方、子どもとのかかわり方など、倫理観、道徳観を、教育を通じてしっかり身に付けさせ、子ども達を保護者だけでなく地域とともに育てていく体制を強化させることにより、児童虐待やいじめなどという普通の親心あるいは隣人愛があるならばとても起こりえないことが社会からなくなるように、最善の努力と感心を持ち続けなければなりません。私たち大人には子供を時には優しく、ときには厳しく見守ってあげる責任があるのです。間違っていることをしている子どもを見つけたら、その子の将来を思って厳しい態度で叱ってあげる、これが本当の愛情であり、親としてあるいは大人としての責務だと私は信じます。
最後に先ほどのジェシー・ヘルムス上院外交委員長が当時の大統領に向かって訴えた言葉の一部を紹介させていただきます。
「国連の児童の権利条約は自然法上の家族の権利を侵害するものであり、大統領はこれに署名して上院に送付すべきではない」 「大統領!このbag of worms(虫唾の走るイカサマ)にアメリカ国民は引っかからないでしょう。…(12条の自己決定権をさして)そもそも一体これは何を意味しているでしょう。合衆国では、どの学校へ行くかを、 親が子供自身の選択に委ねたことはありませんが、これが非難されるのですか。合衆国では、子供に家事を担わせるとき子供の意見を聞いたことなどありませんが、これが非難されるのですか。…もしもこの条約が批准されれば、 『子供の権利』のためという装いの下で、この羊の皮をかぶった狼は、子供の教育に極めて大きな役割を果たす親の権威を根本から損ねてしまうでしょう」「大統領!合衆国上院は、児童の権利条約の審議を認めることによって、この奇妙な文書に箔をつけるようなことを為すべきではありません。」以上で私の反対討論を終了します。この国とこの国の歴史と文化・伝統そして、私たちの豊島区を心から愛する議員の皆様の勇気あるご決断を期待致します。ご静聴ありがとうございました。